今までヴィーコの周期を検証し、現代国際社会が三重の危機に直面していることを見てきましたが、これらの危機に直面して私たちは根本的な解決法を見つけることができるのでしょうか? 掘り下げてみると、実はこれらの問題の原因となっているヴィーコの周期の根底には現実主義と理想主義という相対立する思想体系の相克があることが分かります。第5講ではこの点に目を向けてみたいと思います。それではまず、現実主義と理想主義の検証からはじめましょう。
現実主義というのは端的に言うと弱肉強食の社会です。これは強いものが生き残り子孫を残すことができ、それによって、種全体がより強いものになっていくという原則です。この世界では、個人個人が自分の生存のために他人は全て敵となり争いあいます。ここでは悪は存在しません。道徳も存在しません。というのも、生き残る為には何をしてもいいからです。他人を殺してもいいし、騙してもいい。殺されるのは自分が弱いからだし、騙されるのは自分が悪いのです。
理想主義は、一人一人が社会全体のために貢献し、それによって安全な社会を築きあげ、みんながそこから恩恵を受け平和に暮らせるようにしようとする試みです。ここでは住民は常に自分の利益よりも社会全体のことを考えます。また、みんなが貢献してくれたものをどのように社会に役立てていくかを決める指導者が必要となります。そこでは善良な賢者に全権を委ね、みんなにとって利益となる決定を下し、個々の能力に応じて役割や責任を分担してもらい、人々がそれに従うことによって社会の平和と秩序が守られます。ここで、一番重い責任を背負い、一番大きな自己犠牲を払うのは指導者です。その行為によって人民のお手本となるのです。純粋な理想主義社会にも悪は存在しません。人はみんな全体の利益のことを考えるので個人の利益を追求することはないし、指導者も職権を乱用することもなく常に全体の益を考えて決断を下すからです。全体のために奉仕するという考えは大変抽象的で捕らえ難いので、理想主義社会ではそれをよく神に仕えるという形で具体化します。宗教と理想主義は切り離せない関係にあります。また、この社会では愛が非常に重要になります。愛とは自分のことばかりではなく他人のこと、そして全体のことを大切に思う感情のことです。愛によって他人を自分と同じように大切に考えることができるようになり、それを基盤に理想主義社会は築かれていくのです。
この二つの思想体系が出会った時に悪という概念が生まれます。まず理想主義から現実主義を見た場合、現実主義者の自分だけが生き延びればいいとか自分さえ良ければいいという行動は悪に映ります。これだけなら単に解釈上の問題ということになりますが、理想主義と現実主義が共存した場合、現実主義の単独社会では起こりえない悪の形態が生まれてしまいます。現実主義社会では、自分の生存や利益のために何をしてもいいのは事実ですが、そんな社会で生き残るとなると、ただ単に好き勝手なことをやっていれば生き延びられるというわけではありません。まずいくら強くても、自分もいつ襲われるか分からないわけですから、不必要なエネルギーは使わないで、どうしても必要な時のために取っておくことが大切です。また自分の力がどんどん付いてくると周りの者がそれを懸念して、協力してそれ以上強くならないように押さえ込もうとします。そこで他の人が強くなってくるとまた周りが協力してそれを食い止める。このように現実主義社会では力の加減によって協力体制ができ、それが代わると協力関係も変わってくるので、固定の味方や敵というものは存在しません。つまり「昨日の敵は今日の友。昨日の友は今日の敵」という社会ですから、今は敵であっても余りむちゃくちゃにやっつけるということはしなくなります。これが悪に歯止めをかけます。このようにみんな生き残る計算だけで動いているので、感情のもつれということもなく、憎しみという感情も存在しません。この世界では感情は必要ないのです。力の配分を巡った生き残りのための計算だけがこの世界の基盤です。
この社会が理想主義と接して両者が混じったとき、残念ながら悪の最大化が起こってしまいます。まず第一に理想主義の全体に貢献するという考えは現実主義社会の権力者の絶好の支配の道具になってしまいます。権力者は普通なら武力を使って威嚇することによって人々を支配しなければなりませんが、これでは限度があります。一人で何百万人もの人民を武力による威嚇だけで支配することは不可能です。しかし、理想主義の全体への貢献をうまく使えば、自主的に忠誠心を獲得することができます。理想主義社会で用いられる神に仕えるという概念を使って、君主は「私に使えることは神に仕えること」と人民に信じ込ませれば、武力を使わずに支配を確立することができます。理想主義と現実主義の共存圏では理想主義は現実主義者にこのような絶好の道具を与えてしまうことになるのです。
理想主義は既に権力の座にある現実主義者だけに利用されるのではありません。権力の座に就きたいとの野望を持つ者にもしばしば利用されます。彼らは現存の権力体制を破壊して自分がその座につくため、理想主義者を破壊の道具に使おうとします。良くこの標的にされるのが、聡明で問題意識を持った正義感の強い若者や、弱肉強食化が進んでいく中で、弱者としてその被害を被る若年層です。彼らは、正義感の強い若者には、まずいかに現体制が腐敗しているかを説きます。そしてこの時点では彼らの言うことはすべて当たっているのです。ですから若者はこれに同調し、また自分の言うことを親身になって聞いてくれるこの人物に陶酔します。また、高い失業率などで苦しむ若者にも、現体制を破壊してもっと良い社会を作ろうと呼びかけます。これらの若者にとっても彼らは希望を与えてくれる指導者に映ります。そうなると、後は「正義のためにそのような腐りきった制度を破壊しよう。」と言えば、破壊の道具として忠実に目的を達してくれます。しかし、現体制が破壊された後に残るのは無政府状態で、これは腐敗した政府よりももっと悪い状態ということになってしまいます。一生掛けて、健全な新しい制度の建設に取り組みなさいと指導される代わりに、若者達の真の理想的な社会を作りたいと願う気持ちは、このように誤った方向に誘導されて、破壊の道具になっていってしまうのです。
第二に理想主義の実現には愛という感情が欠かせない礎になりますが、感情のあるところには必ず憎しみも生まれてしまいます。理想主義は自分と同じように人々全てを愛しましょうと説きますが、これはなかなか言うは易し行うは難しで、特に集団が大きくなると自分と同じように全ての人を愛するというのは現実的にできることではありません。まず自分、それから家族、それから友達、同じ村の人、同じ国の人と離れるにつれてだんだん自分と同じように愛するというのは難しくなってきます。会ったこともない遠く離れた村の人を自分の両親と同じように愛することは現実的ではないでしょう。その結果人は愛情の対象となる範囲を持つようになります。キリスト教徒は同じキリスト教徒間の友愛を持つことができました。近代社会ではこれは国民国家という形になり、オリンピックなどに見られるように人は自分の国の人たちに親近感を覚えるようになっています。この部分的な愛情が自分の愛情の対象外の人たちと自分の集団を差別化したり、また自分の集団を傷つける外部集団に対する憎しみの感情を生んだりすることになり、「昨日の敵は今日の友」という現実主義の貴重な、悪に歯止めをかける手段を奪ってしまうことになり、戦いは憎い敵を皆殺しにするとか、憎しみが憎しみを生む止むことの無い争いを起こすことになってしまいました。
それでは次にこの理論上の問題が現実社会でどのようにヴィーコの周期と関連しているかを検証してみましょう。
実際の社会では純粋な現実主義や理想主義社会は存在しません。両者は入り混じっています。それをモデル化すると以下のようになるでしょう。
(1) どの社会の歴史上のどの時点においても、理想主義に賛同する人たちと現実主義に賛同する人たちが共存します。
(2) 現実主義者は自身を強者と思い生存競争において生き残る自信のある人たちである可能性が高いでしょう。自分は強いので個人的目的達成のため妥協をする必要は無いと感じているのです。
(3) 理想主義者は個人の必要や欲望を捨て社会全体に貢献し、それによって社会が市民の安全を提供できるようにすべきであると考える人たちです。
(4) 社会には二種類の理想主義者が存在します。第一は無条件の理想主義者で、彼らは他人が何をするかに関わらずその理想主義の使命を遂行し続けます。第二は他の人民も理想主義を遂行する場合に限って、またはそうすることの犠牲が極めて低い時に限ってのみ理想主義を遂行する条件付の理想主義者です。犠牲が彼らにとってあまりに大きすぎる場合は、彼らは理想主義を放棄します。
(5) 典型的社会では、もっとも多数なのは条件付理想主義者で、次に現実主義者が続き、最も少数なのは無条件理想主義者であるといえるでしょう。
これらの仮定を図に表すと以下のようになります。クリックしてみてください。
ここでビーコの周期を思い出してみましょう。この社会はビーコの周期によって変遷します。周期のある時点では、貢献による犠牲が低く、条件付理想主義者のより多くが理想主義の領域にとどまります。別の時点では、貢献による犠牲が大半の人民にとって高すぎるので、彼らは理想主義を放棄し、現実主義者の領域に参加するでしょう。その結果、各領域の人数は上下します。
(1) 神の時代:これは理想主義が最も強力な時代です。この段階は弱肉強食がはびこる野蛮時代から生まれます。人々は自分自身で常に身を守らなければならない状態に疲れきっていて、もし社会がこの弱肉強食の状態から脱出できるのであれば、個人的犠牲を払う用意があります。条件付理想主義者の中から、より強いものが無条件の理想主義の領域にたどり着き、条件付理想主義者を指揮して同盟が成立し、中間層である現実主義者の領域を抑制します。中間層が完全に消滅することはありませんが、この理想社会では、無条件の理想主義者が政治的権力を掌握し、その権力を悪用することなく、利他的な「善」を奨励し、自己中心的な「悪」行動を罰します。これにより「正しいこと」をするための犠牲が減少し大部分の人民は理想主義者の領域に滞在するのです。これがさらに中間層を縮小させ、理想主義を強化します。
(2) 英雄の時代:現実主義者が理想主義者の指導者層に権力が集中しているのを見るにつけ、効率的に支配を確立する方法をその中に見出すようになります。通常は支配を確立するには威圧行為が必要ですが、人民に彼らが無条件理想主義者であると信じ込ませることができれば、人々は支配者を信用し服従します。また、人民を自分たちの間の権力闘争の道具に使うにことができます。競争相手の邪悪さを暴露するだけで、人々は善を擁護しているのだと信じて競争相手を攻撃してくれるのです。現実主義者にとってこれは費用のかからない軍隊です。そこで現実主義者は無条件理想主義者であるふりをして理想主義を侵食し始めます。一旦彼らが権力の座に着けば、その個人的必要と欲望に人々が忠誠を尽くすことを要求するようになりますが、これは通常社会全体にとっては有害です。ここでは全体の福祉に忠誠を尽くす人は処罰されることになり、時が経つにつれて、条件付理想主義者は何が起こっているかに気づき始め、幻滅し、理想主義者の領域を離れて現実主義者に合流することになります。それには2つの道があります。ひとつは恐怖で、不正に対して抵抗するために払う犠牲が専制君主の下ではあまりに高くなり、自己防衛のために理想主義者の領域を離れます。もうひとつは欲望で、人民が他の人民が専制君主を支持することによって得られる報酬を見るにつけ、理想主義の領域にとどまるにはあまりにも魅力的になってしまうのです。より多くの人民が現実主義の領域に合流するにつれ、中間の現実主義者層が増大し、それがさらにその増大を呼ぶという悪循環が生まれます。
(3) 人民の時代: 皆のために決断を下してくれると信じて権力を委託した専制君主が私利私欲のため権力を乱用したため、人民は専制君主を取り除きます。これによって、無条件理想主義の領域も無くなってしまいます。そのおかげで人々は専制君主による人権侵害の心配の必要は無くなりましたが、より小規模な脅威に対して個人の生存のため個々の闘争を繰り広げなければならなくなりました。それは会社の社長であったり、役人であったりといろいろです。このような行為を諌めてくれるはずの最高指導者はもう存在しません。そして最後には万人の万人に対する戦闘状態にまで行き着くことになります。
(4) 理想主義者の領域が完全に消滅したとき、社会は野蛮状態に戻ります。
この周期は以下の図で示されます。クリックしてみてください。
このように見ると、人間は悪に苦しみ悪のない理想社会を作ろうとする努力の中でさらに深刻な悪を作り出してしまうという悪循環に苦しんできたことが分かります。それではこれを解決する方法はないのでしょうか? 悪は理想主義と現実主義の接点で一番深刻な問題を起こしています。それに対して人類は、今まで現実主義と理想主義を分けて見てきたので、一番深刻な問題に対処することができなかったのです。接点で起こってくる問題を解決するためには現実主義と理想主義が統合されなければならないことがここに示されています。それを試みるために提案されているのが形而上工学です。次にこの学問について見てみましょう。